私は2018年現在39歳になる男性です。
生まれは埼玉県の某所。父は祖父と自宅裏の掘っ立て小屋でプラスチック成型の仕事を営んでいました。
兄弟構成は・・・
- 長男 (39歳 既婚 私です)
- 次男 (37歳 既婚)
- 長女 (35歳 未婚)
我々子供たちは、物心付いたときから「毎日のように母親にDVを繰り返す父親」を見て育ちましたが、なぜか明るい性格でした。
得に妹は男兄弟で育ったためか活発で、3歳頃のある日ゴミ集積所に集まっていたカラスに、「トットちゃーん」と走りよってつつかれたというエピソードがあったのを覚えています。
子供ながら無意識の内に団結するようになっていました。
今はバラバラに暮らしているので中々会うこともできませんが、幼いころは3人でよく遊んでいた記憶が微かに残っています。
家の周りは住宅地でしたが、公園などもありとても遊びやすい環境でした。
自宅は平屋の借家
住んでいた地域は首都圏のベットタウンとして栄えていましたが、畑や田んぼがまだまだ残る場所で、私達家族が暮らしていたのは、昭和30年代に作られたと思われる平屋の借家でした。
この家は私の父が上京してきた際に借りたもので、母との結婚を期に2軒目を借りることになったのです。
家族が増えてからは1軒目に両親と私達兄弟、そして隣に祖母が暮らしており、食事のときは祖母の家へ出向いて食べるという生活をしていました。
家の外観は茶色いトタン屋根と、グレーの瓦屋根、玄関や窓はすべて木製。
上水道は通っていましたが、下水は無かったのでトイレは汲み取り、お風呂はタイル張りで冬はすぐに冷めてしまって寒かったな~。
また、ガス漏れ警報機がしょっちゅう誤動作していたのも思い出します。
もう一つがネズミ。
カリカリと柱か何かをかじる音がいつもしていて、気がつくとお勝手とテレビ部屋のガラス戸の間をいつも走り回っていました。
幼稚園ではなく保育園へ入学
両親は自営業を営んでいたため、私達兄弟は幼稚園ではなく保育園へ入園することになります。
今から35年前はどんな家庭の子供でも保育園に入ることができましたが、この話を今の方が聞いたら驚くかもしれませんね。
※私達兄弟が生まれる前から、「モラハラ親父」は昼間からパチンコに出かけ、母にばかり仕事をやらせていたので、ほとんど家にいませんでした。
祖母も同居していましたが、働かない親父を注意せず見て見ぬ振り。
そのため、母は何かあったときのためにと私達を実家の近所にある保育園に入園させてくれたのです。
このころ、「食卓に並ぶおかずが気に入らない」などを理由に、毎日のように母を怒鳴り散らし、暴力を振るっていたのを覚えています。
私はすみれ組みのクラスメイトになりました。
保育園では毎日友達と遊び、先生にかわいがってもらった記憶がありますが、私はいつも迎えが待ち遠しくて、帰りの時間になると園庭にやって来た母を見つけて「お母さーん」と大きな声で駆け寄り、抱っこしてもらったことを鮮明に覚えています。
母もそのことを記憶しており、「今でもあの時のアナタの笑顔は忘れない」と会うたびに話してくれるのがなんだか照れくさかったです。
新しい友達ができた小学生時代
ボロイ自宅から徒歩10分の小学校に入学した私。
学校の途中にはスイミングスクールや歩道橋があったのを覚えています。
入学したのは保育園と違う学区の小学校だったので、まったく知らない人だらけでクラスに馴染めるか不安だった私ですが、自然と友達もできて楽しい毎日を送っていました。
勉強は全くダメでしたけど、放課後にみんなの家に集まってファミコンで遊んだのを覚えています。
また、近所の公園や空き地で自転車で走り回ったり、メンコやドッジボールで思いっきり体を動かして遊びました。
その他、当時「志村けんのだいじょうぶだ~」が始まり、クラスの友達たちとコントで登場する「へんなおじさん」などの物まねも流行りました。
このころの私達兄弟のマイブームは、お湯に砂糖を入れて飲む所謂「砂糖湯」。
実は祖母が「こうやって飲むと美味しいよ」と教えてくれたのですが、自分でいくらでも味の調節ができるばかりか、手軽に作れることから毎朝飲んでいました。
我が家はずっと貧乏でお菓子もあまり買ってもらえなかったことから、この甘いお湯が私達にとってのお菓子代わりだったのです。
しかし、祖母が私たちに砂糖湯を飲ませていることを、母は良く思っていませんでした。
後で理由を聞くと、もっと栄養のあるものを食べさせてあげたかったからと。
当時は美味しかったので何も考えませんでしたが、自分も親になった今、子供が同じものを飲んでいたらきっと母と同じ事を言うでしょうね。
離れて暮らせることに喜んだのも束の間
あれは1988年。小学校三年生に上がってすぐのことです。
母から「お父さんがね、4月から仕事の関係で千葉県で一人暮らしをすることになったんだ。」
「これからはアナタたちとお母さん、おばあちゃんで暮らしていこうね。」
と突然言われ何の事だか分からず混乱していると、
「仕事が忙しくなるから新しい機械を買いたいんだけど、今の工場は狭くて入れられないから引越しするんだよ。」
「これからはお父さんが一人で働いて、日曜日だけ帰ってくるようになるからね。」
と教えられますが、私達兄弟は父が怒鳴る姿を見なくてすむので、心のそこから喜びました。
しかし、その年に5月に突然母親から、「みんなで千葉県に引っ越すことになった」と告げられます。
私は「どうしてお父さん一人じゃないの?行きたくないよ。」と言いましたが、父に逆らえない母は「お父さんが決めたことだから」とそれ以上は何も言ってくれませんでした。
また、本来転校の際は4月の新学期に合わせて手続きを済ませるのが一般的ですが、父はそういった面倒な手続きなどを一切やらず、決めたことを急に言う性格のため、私達兄弟の転校が6月になってしまったのです。
その結果、転校先の新学期遠足に参加できず、教科書ももらえないという事態に。
今考えると、子供のころから我々家族は親父に振り回されてきたんです。
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